神戸地方裁判所 平成3年(ワ)1694号 判決 1998年3月23日
主文
一 被告らは、各自、原告甲野一郎に対し、金九〇九〇万二一四八円及びこれに対する平成二年三月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告らは、各自、原告甲野太郎に対して、金八二五万円及びこれに対する平成二年三月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 被告らは、各自、原告甲野花子に対して、金八二五万円及びこれに対する平成二年三月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
四 訴訟費用は被告らの負担とする。
五 この判決は、一ないし三項に限り、仮に執行することができる。
理由
【事実及び理由】
第一 請求
主文と同旨
第二 事案の概要
一 本件は、国立神戸大学医学部付属病院(以下「本件病院」という。)において腎盂尿管移行部狭窄切開術を受けた原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)が、術中の潅流液溢流事故によって重篤な後遺障害を受けたと主張し、原告一郎並びにその両親である原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)及び原告甲野花子(以下「原告花子」という。)において、民法七〇九条・七一五条に基づき(被告国については、さらに債務不履行に基づき)、右事故によって生じた損害の賠償を求めた事案である。付帯請求は、右手術の日以降の民法所定の遅延損害金である。
二 以下の事実は当事者間に争いがない。
1 原告一郎は、原告太郎と原告花子の間の三男として平成元年五月一六日に出生した男児である。被告松本修(以下「被告松本」という。)は、平成二年当時、神戸大学医学部泌尿器科教室助教授の地位にあり、被告志賀真(以下「被告志賀」という。)は、その当時、本件病院麻酔科研修医であった。
2 原告一郎は、平成元年九月一八日、左側腹部に腫瘤が認められ、嚢胞腎が疑われたため、本件病院小児科に入院し、同年一〇月半ばころ以降、同病院泌尿器科にも受診し、同年一一月六日、左の腎盂(腎臓内の尿を集めて膀胱へ送る場所)の造影検査を受けた結果、左の腎盂と尿管(腎盂と膀胱を結ぶ管)との境目である左腎盂尿管移行部に先天的な狭窄があり、このため左腎の水腎症に罹患していることが判明した。
原告一郎は、同年一一月一六日、本件病院泌尿器科において、左脇腹開腹のうえ、左腎盂尿管移行部の狭窄部を切り取り、残った尿管と腎盂を吻合する左腎盂形成術を受け、その際、原告一郎の左腎には切開部が接合するまでの間、尿が流れないよう腎瘻(腎臓にカテーテルを挿入するための穴)が造られ、ここから腎盂内まで挿入されたマレコカテーテル(腎瘻カテーテル)を通して体外へ直接尿が排泄できるようにされた。
3 被告松本は、右手術の二、三週間後、腎盂造影検査を行ったが、期待された腎盂から尿管への通過は見られなかったので、平成二年一月一一日、原告一郎の左腎盂の内視鏡検査を行った結果、左腎盂形成術の際の吻合部内腔に瘢痕性肉芽が形成され、これによって再度の狭窄が生じている状況を確認し、狭窄部の拡張を期待して、腎瘻から、腎盂・狭窄部・尿管を経て、膀胱内までJカテーテルを留置した。
その後も原告一郎の左腎盂尿管移行部の狭窄が改善されなかったため、本件病院泌尿器科においては、再度その狭窄部を切開する手術(以下「本件手術」という。)を行うことにし、本件手術の執刀医は被告松本が、麻酔医は被告志賀が担当することになった。
4 本件手術は、平成二年三月一日一三時三〇分から一六時三五分までの間(三時間五分)行われた。
原告一郎は、本件手術時中、頭部を除いて全身を撥水性・不織布製・不透明の無菌覆布(以下「覆布」という。)で覆われており、その覆布は、腎瘻部分に穴があいており、その周囲に付着した接着剤によって患者の身体に貼り付けるようになっていた。
5 本件手術は、全身麻酔下で原告一郎を腹臥位にし、(一) Jカテーテルの中にガイドワイヤーを挿入したうえJカテーテルを抜去し、(二) 留置していたマレコカテーテルを抜去し、(三) 筋膜ダイレーターを腎瘻に差し込んで、内視鏡が挿入できる大きさになるまで徐々に腎瘻を拡張し、(四) ガイドワイヤーに沿って内視鏡を狭窄部まで挿入し、(五) 内視鏡の中を通した切開刃を用いて狭窄部(瘢痕性肉芽部)に数箇所切れ目を入れ(すなわち、狭窄部全層を切開するのではない)、(六) 再度、Jカテーテル及びマレコカテーテルを留置し、ガイドワイヤーを抜去するという手順で行われたが、内視鏡手術は、術野を洗浄する潅流液を流入させながら(汚れた潅流液を排出させながら)行われるのが一般的であり、本件手術の際にも、潅流液として糖類を使用した等張液(三パーセントのD-ソルビトール)が約六リットル使用された。
ところが、本件手術終了直後、術中に使用された潅流液のうちかなりの量が、原告一郎の左腎盂から体内に溢流していることが判明した。
6 原告一郎は、本件手術の後、低ナトリウム血症、高炭酸ガス血症、低酸素血症、肺水腫、急性腎不全という合併症を引き起こし、これら合併症に対する治療がされたが、平成二年三月二三日には脳室拡大が、四月一八日には脳萎縮が認められるようになった。
結局、原告一郎には、回復の見込みが全くない、脳障害による強度の意識障害や上肢・下肢の硬直性麻痺(機能全廃)という後遺障害(以下「本件後遺障害」という。)が残り、常時、完全な介護を要する状態となった。
三 争点
1 被告松本に本件手術に際して潅流液の溢流を監視すべき注意義務を怠った過失が認められるか。
2 被告志賀に本件手術に際して潅流液の溢流を監視すべき注意義務を怠った過失が認められるか。
3 1又は2の過失が認められる場合、右過失と本件後遺障害との間に因果関係が認められるか。
4 原告らの損害額
四 争点1(被告松本の過失)に関する当事者の主張
(原告ら)
1 腎瘻を通じて内視鏡を腎盂内に挿入し、腎盂尿管移行部の狭窄部を切開しようとする場合、術中に潅流液を腎盂内に流入させるから、誤って尿管を全層切開したり、腎盂、腎瘻等を損傷した場合には、潅流液が大量に溢流する危険もある。そして、溢流した潅流液が体内に吸収された場合には、低ナトリウム血症、鬱血性心不全、肺水腫等の合併症を引き起こし、重症の場合にはショック状態となり急性腎不全等に移行することもあるから、執刀医である被告松本には、本件手術に際し、絶えず潅流液の溢流がないかを監視し、溢流に気付いた場合には、直ちに手術を中止して適切な事後措置をとるべき注意義務があった。
2 本件手術の場合には、以下の点において、潅流液の溢流を厳重に警戒すべき特殊な状況があった。
(一) 内視鏡を用いた狭窄部切開術は、一般的には、狭窄部の一か所を全層切開して尿管ステント(Jカテーテルなど)を腎盂から尿管に挿入する(この場合、ステントの外側に肉芽の形成を促し、狭窄部を拡張する)という術式がとられるが、本件手術は、狭窄部の何か所にも切れ目を入れるという、前例のない特殊な(いわば実験的な)術式がとられたので、手術時間が長時間となる可能性が最初から高かった。
(二) 原告一郎が、生後九か月の乳児であり、成人に比して腎盂尿管移行部が非常に小さく、狭窄部の全層を切開しないで切れ目だけ入れるというのが、手術手技として非常に困難であった。
(三) 成人には少量と評価できる量の潅流液の溢流であっても、循環血液量、体液量が少ない生後九か月の乳児の身体には重大な影響がある。
(四) 本件手術の最初の段階である腎瘻拡張時には、造影によるエックス線透視で腎瘻からの造影剤の漏れが確認された。
3 被告松本は、本件手術にあたって、潅流液の溢流を早期に発見するため、次のような措置をとるべきであったが、これを怠った過失がある。
(一) 麻酔医被告志賀との事前協議
被告松本は、本件手術において原告一郎の全身管理を担当する被告志賀との間で、事前に潅流液溢流の危険性及びこれを早期に発見するために採るべき措置等について、連絡、協議を行うべきであったが、実際には何らの協議も行わなかった。
(二) 潅流液の使用量と排液量の比較
潅流液を使用する内視鏡手術においては、潅流液の使用量と排液量を比較することにより、体内に溢流した潅流液の量を知ることができるのであるが、これは、本件手術と同様に内視鏡を用いた腎結石砕石術(PNL)においては必ず行うものとされている。したがって、被告松本は、本件手術においても、排出された潅流液を一箇所で受ける方法を工夫して、これを行うべきであったが、実際には行わなかった。
(三) 腹部等の肉眼での観察・触診
乳児は、大人に比して組織が脆弱であるから、潅流液が後腹膜腔に溢流すれば腹部や陰嚢が膨満することは、十分に予見可能であった。したがって、被告松本は、本件手術にあたって、原告一郎の覆布を透明なものにして足が邪魔にならないように側臥位にするか又は覆布をめくるなどして、自ら又は助手に指示して腹部及び陰嚢の膨満の有無を肉眼で観察し、あるいは、直接腹部を触診することにより、原告一郎の腹部等の変化を観察すべきであった。しかるに、被告松本は、本件手術の際にこれらの処置を全く行わなかった。
(四) 手術時間の制限
潅流液の溢流が生じた場合には、時間の経過とともに体内に吸収される量が増大するから、本件手術の対象が乳児であることも考慮すると、被告松本は、遅くとも手術開始後一時間を経過した段階において、被告志賀と協議のうえ、血液検査により血漿ナトリウム濃度を測定する等、潅流液の溢流を早期に発見するためのより積極的な措置を講じるべきであり、また遅くとも二時間以内には本件手術を終了すべきであった。
しかるに、被告松本は、本件手術開始後一時間を経過した後も、何らの措置も講じず、手術時間も全体で三時間五分と長時間に及んだ。
(被告松本・同国)
1 本件手術の術式について
本件術式は、一般的術式のように深く切開するものではないから、切開部分から後腹膜腔に潅流液が漏れる可能性は、はるかに少なく、穿孔の危険性もはるかに少ない。
2 本件手術の際に使用された内視鏡には、ビデオカメラが付いていたので、被告松本以外のスタッフも手術室内のビデオモニターによって、術野を常時監視していたが、穿孔等の異常は確認されなかった。
被告松本は、かつて成人の内視鏡手術の際に潅流液の溢流を発見した経験をふまえて、本件手術中に原告一郎の患側の背部を度々触診したが、膨満を発見することはできなかったし、本件手術中に六、七回造影剤を使用してエックス線透視を行ったが、やはり、溢流は認められなかった。したがって、潅流液は腎盂組織の全体から浸潤し、徐々に体内に吸収されていったとしか推測できない。
なお、腎瘻拡張時の透視では、腎瘻の周囲組織にごく軽度の造影剤の溢流像が認められたが、直ちに手術を中止すべき所見ではなかった。
右のとおりであって、被告松本は、本件手術に際し、一般の内視鏡手術に要求される以上の慎重な注意を払い、潅流液の溢流の有無を確認していたのであるから過失はない。
3 原告ら主張の過失について
(一) 潅流液の使用量と排液量の比較について
本件手術中は、使用された潅流液が、内視鏡の手元の複数の部分から絶えず排出され、覆布や術者の手を濡らしながら手術台や床に落下する状態であり、排液の回収は非常に困難である。仮に、ある程度の排液を回収し、術野の滞留分も排出されることができたとしても、使用量と排液量との差がどの程度であれば異常といえるかについての医学的知見は定かではないから、右の方法が本件手術における有力な潅流液溢流の発見方法ということはできない。
したがって、これを行わなかったことをもって、被告松本の過失ということはできない。
(二) 腹部等の肉眼での観察・触診について
本件手術は腹臥位で行われたこと、乳児の組織は脆弱で非常に柔らかいことからすると、本件手術時に被告松本又はその助手らが原告一郎の腹部を触診し、あるいは肉眼で観察していたとしても、潅流液の溢流を発見することは不可能であったといわざるを得ない。このことは、仮に透明の覆布を使用していたとしても腹臥位である限り同様である。現に、被告松本らは、本件手術後、覆布を取り除いた段階では異常を発見することができず、体位を仰臥位に変換して初めて腹部や陰嚢の膨満に気付いたのである。
また、覆布をかけた状態で、腹部の下に手を入れるのは、困難であるし、術野を不潔にするなどそれ自体危険である。
(三) 手術時間の制限について
本件手術では、最低限の切開で良好な結果を得ようとしたため、ある程度切開が進んだ段階で、造影によって通過状態と溢流のないことを繰り返し確認していたので、時間がかかったのであるが、そもそも本件手術において、一般的に二時間以内で終了すべきであるとはいえない。
五 争点2(被告志賀の過失)について
(原告)
1 被告志賀は、被告松本から本件手術の術式について、「内視鏡的左腎盂尿管移行部狭窄切開術」と連絡されており、本件における特異な術式については説明されていなかったのであるから、一般的術式(狭窄部の全層切開による必然的な潅流液の溢流を伴う)を前提に、大量の潅流液が溢流し、低ナトリウム血症を伴う重大な合併症が発生する可能性があることを予想して、できる範囲内で潅流液の溢流の有無を監視すべき一般的注意義務を負っていた。
2 被告志賀は、本件手術にあたって、潅流液の溢流を早期に発見するため、次のような措置をとるべきであったところ、これを怠った過失がある。
(一) 執刀医被告松本との事前協議
被告志賀は、当時医師になって間もない研修医であり、麻酔医としての経験はきわめて少なく、小学生以下の内視鏡手術の麻酔を担当するのは本件手術が初めてというほどであったのであるから、事前に被告松本との間で綿密な協議をすべきであったが、実際には、何らの協議も行わなかった。
(二) 人工呼吸のバッグの変化の有無の観察
被告志賀は、本件手術中原告一郎の換気のため、常時、用手換気バッグを手で揉んでいたのであるが、右バッグは、患者の腹部が膨満してくるにつれ、しだいに固くなってくるのであるから、被告志賀は、常にバッグの変化に注意すべきであった。本件では、手術開始後相当早期の時点から腹部が膨らみはじめ、これに伴ってバッグも変化を示していたと推測されるが、被告志賀は、漫然と揉んでいたためその変化に気付かなかった。
(三) 動脈カテーテルの留置による定期的な血液検査
体内に溢流した潅流液が血液中に吸収されると、血漿ナトリウム濃度が低下するから、被告志賀は、原告一郎に動脈カテーテルを留置し、一時間ごとに血液検査を行って血漿ナトリウム濃度を測定すべきであった。しかるに、被告志賀は、一旦動脈カテーテルを留置したものの、これを確保せず測定不能のまま放置した。
(被告志賀・同国)
1 本件手術における麻酔責任者は、五嶋医師であり、被告志賀は、五嶋医師の指導、監督のもとで麻酔の実施、管理にあたったのであるから、この点について被告志賀に責任はない。
2 被告志賀の注意義務について
本件手術当時には、本件手術の際に、執刀医が誤って穿孔を生じさせた場合以外に、潅流液が大量に溢流する危険があることは、麻酔医において一般に認識されていなかった。そして、術野に穿孔が生じた場合には、執刀医が容易に発見することができるから、麻酔医に穿孔の発生の有無を監視する義務はない。
したがって、被告志賀には、本件手術において、潅流液の大量の溢流の有無を発見するために特別のモニタリングを実施すべき注意義務はなかった。
3 仮に、被告志賀に本件手術に際して潅流液の溢流の有無を監視すべき注意義務が課せられていたとしても、被告志賀は、次のとおり、通常必要とされる以上の各種機器を用いて、原告一郎の全身状態を監視していたから、被告志賀に過失はない。
(一) 被告志賀は、本件手術に際し、自動血圧計、体温計、パルスオキシメーター(動脈血の酸素飽和度を測定)及び心電図を設定し、原告一郎の全身状態を監視しつつ、麻酔管理を行ったところ、本件手術中は、体温を除いていずれも正常値内で推移した。
体温については、一四時一五分ころ三七・八度に達したので、被告志賀は、電気マットの温度や室内温度を下げてコントロールした。その後三八・一度まで上昇したが、術中は悪性高熱の所見はなかった。
(二) 被告志賀は、本件手術中、五分ごとに原告一郎の肩に聴診器をあてて呼吸音を聴き、手で揉んでいたバッグの変化にも注意を払っていたが、呼吸音に異常はなく、バッグにも異常抵抗や振動は認められなかった。
(三) 被告志賀は、本件手術中、原告一郎の顔面、頭部及び両上肢部等を見える範囲で観察していたが、腫れ、むくみ等の異常所見はなかった。
4 動脈カテーテルの留置について
(一) 一般に定期的に血液ガス分析を行うための動脈カテーテルの留置が必要とされるのは、五時間以上に及ぶ長時間の手術、心臓・肺の手術、大出血が予想される手術、手術前から心肺機能の悪い患者に対する手術等であるところ、本件手術は、右のいずれにも該当しないし、一般的術式に比して潅流液の溢流の危険性がはるかに少ないことからすると、本件手術当時の大学の医学部付属病院の麻酔科医の一般的医療水準からして、被告志賀が、本件手術中に動脈カテーテルを留置し、定期的に血液ガス分析、血液検査を行うべき注意義務を負担していたとはいえない。
(二) 被告志賀は、本件手術にあたり、当初研修の目的もあって、五嶋医師の了承の下に動脈カテーテルを留置し、自動動脈圧モニターを設置した。
しかし、被告松本の指示で、術前に原告一郎の体位を載石位から腹臥位に変更して以降、動脈圧波形の上下がカットされ、不正確になったので、被告志賀は、五嶋医師の了承を得て、動脈圧測定を中止した。
また、被告志賀は、一三時四〇分ころ、再度動脈カテーテルから血液の吸引を試みたが、採血が困難で検査に必要な血液量が確保できなかったため、結局、定期的な血液ガス分析及び血液検査は取り止めた。
六 争点3(過失と本件後遺障害との間の因果関係)について
(原告ら)
1 低ナトリウム血症が一定時間継続すれば脳障害を引き起こすことは明らかであり、本件においては、低ナトリウム血症のほか潅流液の溢流によって発生した低酸素血症、肺水腫、急性腎不全、敗血症、播種性血管内凝固症候群(DIC)が脳障害に影響を与えたことも考えられるが、いずれにしても、潅流液の溢流が原告一郎の脳障害の原因になったことは明らかである。
2 被告松本及び同志賀が前記のとおりの監視措置を講じていれば、相当早い段階で(遅くとも潅流液の大部分を使用し、切開操作を終えた一五時三〇分ころまでには)、原告一郎の状態の変化に気付き、潅流液の溢流を発見することができたはずであり、この時点で遅滞なくナトリウムを補給して利尿剤を注射する等の適切な処置をするか、あるいは手術を中止していれば、原告一郎の脳障害は回避できたものである。
(被告松本・同国)
1 低ナトリウム血症が直ちに脳障害をもたらすものとはいえないし、本件では、脳障害をきたすような低酸素血症は見られていない。また、腎不全が脳障害と無関係であることは明らかである。
思うに、原告一郎の脳障害には菌血症、敗血症、悪性高熱及びDICによる血液凝固障害が影響を与えたものと推測される。ところで、悪性高熱は、潅流液の溢流とは無関係であるし、DICは、潅流液の吸収によって血中の凝固因子が希釈されたり、肝臓への血流悪化によって凝固因子の合成が低下する可能性も考えられるので、潅流液と無関係であると断定することはできないが、不可避的な少量の潅流液の漏れでも、潅流液の漏れが少なくても発生しうるものであるから、潅流液の溢流とは無関係に、手術そのものに起因して発生した可能性も否定できない。
このように、原告一郎の脳障害は、手術や麻酔そのものに起因する病態が関与したことによって招かれたものと考えられるから、潅流液の溢流と原告一郎の脳障害とは因果関係がない。
2 本件における潅流液の溢流の原因は、必ずしも明らかではないが、穿孔がなく、造影によるエックス線透視でも溢流が認められなかったことからすると、腎盂組織の全体から後腹膜腔内に徐々に湿潤し、血管や他の組織を介して体内に吸収されていったものと推測されるが、本件手術当時、このような機序によって大量の潅流液が溢流することは予測不可能であって、術中にこれを発見することは不可能であったといわざるを得ない。
また、低ナトリウム血症や腹部の膨満は、原告一郎の体内に溢流した潅流液の影響により、徐々に進行したものであるから、より早期に潅流液の溢流を発見していたとしても、本件のような結果を回避し得たとはいえない。したがって、仮に被告らの過失が認められるとしても、右過失と原告一郎の脳障害とは因果関係がない。
七 争点4(原告らの損害)について
(原告ら)
原告らは、本件後遺障害により次のとおりの損害を被った。
1 原告一郎について
(一) 逸失利益 一七一五万八九七四円
原告一郎は、就労可能な一八歳から六七歳までの間、少なくとも、平成元年度賃金センサス第一巻第一表、産業計・企業規模計・学歴計の男子労働者の一八歳ないし一九歳の平均賃金額(二〇五万三〇〇〇円)の半分の収入は得られたはずであったが、本件後遺障害によって労働能力を一〇〇パーセント喪失し、右収入を失ったところ、右逸失利益の総額から、新ホフマン方式(係数一六・七一六)を用いて中間利息を控除すれば、一七一五万八九七四円となる。
計算式 2,053,000×0.5×16.716=17,158,974(円未満の端数切捨て)
(二) 介護費用 五〇五四万三一七四円
原告一郎は、本件後遺障害により、平成二年の簡易生命表に基づく一歳児の平均余命である七五歳まで、介護のため一日あたり少なくとも四五〇〇円の介護費用を要する状態になったところ、その介護費用の総額から、新ホフマン方式(係数三〇・七七二一)を用いて中間利息を控除すれば、五〇五四万三一七四円となる。
計算式 4,500×365×30.7721=50,543,174(円未満の端数切捨て)
(三) 慰謝料
原告一郎の後遺障害は回復の見込のないものであって、その精神的苦痛は極めて大きいから、その苦痛を慰謝するための慰謝料の額は一五〇〇万円を下らない。
(四) 弁護士費用 八二〇万円
右(一)ないし(四)の合計 九〇九〇万二一四八円
2 原告太郎及び同花子について
(一) 慰謝料 各七五〇万円
(二) 弁護士費用 各七五万円
右(一)及び(二)の合計 各八二五万円
第三 当裁判所の判断
一 内視鏡手術の際の潅流液の溢流について
《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
1 日本において、腎臓や尿管に関する内視鏡手術が行われ始めたのは、昭和五七、八年ころのことであり、浸襲が少ないことからその後多用されるようになった。
本件手術当時、泌尿器科の内視鏡手術として相当数行われていたのは、尿道を経由して内視鏡を挿入する経尿道的前立腺切除術(TURP)や皮膚を経由して内視鏡を挿入する経皮的腎尿管砕石術(PNL)などである。
経尿道的前立腺切除術(TURP)は、前立腺肥大症に対する内視鏡的手術であり、尿道から内視鏡を挿入し、先端に設置したループ電極に高周波電流を流し、前立腺の腺腫を細片に切り刻むという手術である。
経皮的腎尿管砕石術(PNL)は、上部尿路結石及び腎結石に対する内視鏡的手術であり、経皮的腎瘻術によって造設した腎瘻を通して結石を砕石、摘出する手術である。
2 経尿道的前立腺切除術(TURP)の際の潅流液溢流について
(一) 本件手術当時既に発刊されていた「泌尿器科治療ハンドブック」(平成元年八月一日第一版発行)には、経尿道的前立腺切除術(TURP)の術中に生じうる合併症として、<1> 前立腺被膜又は膀胱頚部を損傷して穿孔を生じさせ、穿孔から後腹膜腔に潅流液を溢流させること、<2> 静脈の断端から潅流液が血液中に逆流し、又は後腹膜腔に大量に溢流した潅流液が血液中に吸収されることによって、低ナトリウム血症を伴う一種の急性中毒症状(TUR反応)を発生させることが指摘されている。
同文献によると、TUR反応の症状としては、低ナトリウム血症のほか、患者があくび、不穏、冷汗、悪心、嘔吐を訴え、一過性の血圧上昇に続いて血圧下降をきたし、重傷の場合には、ショック状態となり急性腎不全に移行することもあるので、術中に穿孔や静脈洞の開孔が生じた場合には、できるだけ早く切除を終了し、低ナトリウム血症に対しては、高張食塩水を静注し、利尿剤を投与して潅流液を速やかに排泄させてTUR反応の発症を予防することとされている。
(二) また、本件手術後まもなくに発刊された「泌尿器内視鏡」(平成二年六月一五日発行)には、潅流液が後腹膜腔に溢流すれば下腹部が膨隆するが、膨隆しているかどうかはっきりしない場合には、膀胱内に造影剤を入れてエックス線撮影をして確認すること、TUR反応の診断は、血漿ナトリウム濃度の測定であり、一三〇mEq/L以下であればTUR反応を疑うべきであること、手術中に静脈洞が開孔し、TUR反応が危惧され、しかもどうしても手術を継続しなければならない場合には、早期に利尿剤の静注と高張食塩水の点滴を開始し、一〇分間隔で血漿ナトリウム濃度を測定して、血漿ナトリウム濃度が一二〇mEq/L以下に下がりそうなときは、手術を中止した方がよいこと、そのような事情がなくても、できれば二時間以内に手術を終えた方が安心であることが記載されている。
(三) さらに、「最新麻酔科学(下巻)」(昭和五九年七月二三日第一版第一刷発行)には、「内視鏡を尿道内に挿入して病巣部位を観察しつつ、電気メスで病巣を切除する」という経尿道的内視鏡手術(TUR)の麻酔管理に関して、「切除部位より電解質を含まない潅流液が被膜の静脈洞及び毛細血管中に多量に吸収され、循環付加と血液希釈による低塩症候群が問題となる。症状としては、血圧の上昇、徐脈とともに精神不穏、不安、悪心、嘔吐や頭痛などを訴え、重篤な場合には痙攣、肺水腫、ショック症状を呈する。」「血液の希釈の診断は血清ナトリウムの測定によるが、一二〇mEq/Lよりも低下すると重篤な症状を発現するという。このため、潅流液圧はあまり高くならないようにし、手術時間も可能な限り短く、一応六〇分が限度とされている。」との記載があり、「経尿道的前立腺切除術における血清浸透圧、血漿電解質および赤血球恒数の変動」(臨床麻酔一九八〇-四)には、「TURPにおける血清Naの低下は、・・・いわゆるTUR反応(術中もしくは術後に不穏、嘔吐、血圧の動揺などをきたし、重篤な場合は痙攣、昏睡、ショック及び急性腎不全に至る合併症)の主な原因とされている。」との記載があり、「経尿道的切除術(TUR)の麻酔」(麻酔昭和五四年一月号)及び「経尿道的前立腺切除術における血清浸透圧、血漿電解質および赤血球恒数の変動」(臨床麻酔昭和五五年四月号)にも、血漿ナトリウム濃度の低下とTUR反応の関係について同様の指摘がなされている。
3 経皮的腎尿管砕石術(PNL)の際の潅流液溢流について
右「泌尿器科治療ハンドブック」には、術中、潅流液の体内貯留により肺水腫などの循環不全が生じることがあるので、手技が長時間にわたる場合には、術中術後に潅流液の出納をチェックすべきであると記載されている。
4 被告松本は、本件手術までに、右の経尿道的前立腺切除術(TURP)や経尿道的膀胱腫瘍切除術という経尿道的な内視鏡手術を多数実施していたほか、右の経皮的腎尿管砕石術(PNL)についても約三〇例実施した経験があり、内視鏡を用いて成人の腎盂尿管移行部狭窄切開術を二例実施したことがあった。しかし、乳幼児に対する腎盂尿管移行部狭窄切開術は、本件手術が初めてであった。
5 経皮的腎盂尿管移行部狭窄切開術(本件手術の方式)については、切開刀の供給が十分でないうえ、そもそも腎盂尿管移行部狭窄による水腎症という疾患そのものが比較的まれであったため、国内では限られた施設でしか行なわれておらず、小児を対象とした同手術例の国内報告はなかった。
6 被告松本が行った内視鏡手術のうち、潅流液の明らかな溢流が認められたのは、経尿道的前立腺切除術(TURP)においては約一〇例で、主として前立腺の静脈洞から直接血管内に吸収されることが多かったが、前立腺被膜が損傷されたため後腹膜腔に溢流したこともあり、経皮的腎砕石術(PNL)においては二、三例で、内視鏡による腎盂損傷が溢流の原因であった。
二 本件手術に関する事実経過について
《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。
1 本件手術は、被告松本(執刀医)、医師安野博彦、同宮崎治郎(いずれも執刀医の助手)、同林晃史(器具、透視機械操作)、同山中邦人(隣接のエックス線操作室におけるレントゲン操作)、被告志賀(麻酔医)、医師五嶋良吉(麻酔の指導)及び看護婦三名(麻酔医の準備介助、患者の観察、後片づけ等)の八名のスタッフによって実施された。
2 本件手術及びその直後の経過は、次のとおりである(以下の記載の日付は、いずれも平成二年三月一日である。)。
(一) 一二時一〇分
原告一郎が手術室に入室し、被告志賀は、手術申込書の記載に従って、原告一郎を戴石位(仰向けで足を開く姿勢)に設定して全身麻酔を導入し、術中原告一郎の全身状態を管理するため、次の措置をとった。本件手術前の原告一郎の感染症もなく、健康状態は良好であり、体重は九・一八キログラムであった。
<1> 持続的に体温を測定するため、口内に体温計を挿入。
<2> 動脈血の酸素飽和度を測定するため、パルスオキシメーターを設定。
右装置は、酸素飽和度が九五パーセントを下回ると(正常値は九六ないし一〇〇パーセント)アラームが鳴るようにセットされていた。
<3> 心電図(常時波形と脈拍数を表示)の設定。
<4> 二分三〇秒ごとに自動的に空気を送り込み血圧を測定する自動血圧計を設定。
<5> 尿量測定用のメスシリンダーを設置。
(二) 一二時三〇分 麻酔導入完了
(三) 一二時三六分
(1) 原告一郎の血圧は、自動血圧計により測定可能であったが、被告志賀は、主として自己の学問的興味から、原告一郎の橈骨動脈中に動脈カテーテル留置し、直接動脈圧モニターを設定し、動脈圧を計測することとした。
(2) 麻酔下の原告一郎の換気は、被告志賀がゴム製の用手換気バッグを手で揉んで行うことになっていたので、被告志賀は、換気の状態を確認するため、留置した動脈カテーテルから採血した動脈血の血液ガス分析及び血液検査を実施したところ、その結果は次のとおりであり、換気が強すぎたほかは、異常がないことが判明した。
水素イオン濃度(PH) 七・四五〇(正常値・七・四)
二酸化炭素分圧 二六mmHg(正常値・三〇ないし四〇)
酸素分圧 二五九mmHg(正常値・九〇ないし九九)
血漿ナトリウム濃度 一三七mEq/L(正常値・一三〇台)
血漿カリウム濃度 四・三mEq/L
(四) 一二時五〇分
被告松本が手術室に入室し、被告志賀は、被告松本の指示により原告一郎の体位を腹臥位に変更したところ(手術申込書の記載は誤りであった。)、動脈カテーテルが折れて体内に刺さったままになり、動脈圧波形が出なくなったので、以後、動脈圧の計測は断念した。
(五) 一三時三〇分から一五時三〇分
(1) 一三時三〇分に本件手術が開始され、一五時三〇分には、内視鏡の中を通した切開刃を用いて狭窄部(瘢痕性肉芽部)を切開するという操作が終了した。本件手術に使用された内視鏡は、標準的なサイズのもので、特に小児用のものではなかった。
(2) 術中使用する潅流液は、手術台の上にぶら下げたバッグの中に入っており、被告松本が、内視鏡の手元の注入口のコックを調整すると、潅流液は、水圧によりチューブを通って注入口から術野に流入する仕組みになっており、術野が潅流液で充満した後は、内視鏡の手元の排出口(このコックは、術中半分開いた状態にされていた)のほか、操作器具挿入口やガイドワイヤーの挿入口からも常時排出されていた。
(3) 被告松本は、内視鏡の手元に設置されたビデオカメラで拡大された術野(ただし、内視鏡の視野は、切開刀とその周囲のわずかの部分である。)を観察しながら操作を行った。ビデオカメラの映像は、手術室内のビデオモニターにも投影されており、他のスタッフも術野を観察できるようになっていたが、本件手術中は、被告松本及びその他のスタッフとも、損傷等の術野の異常を認めなかった。
(4) 被告松本は、術中、次のとおり、造影剤注入によるエックス線透視を行ったが、二回目以外は、造影剤の溢流には気付かなかった。
<1> 一回目
筋膜ダイレーダーを挿入する前に、腎臓の位置を確認するため、腎盂造影を実施した。
<2> 二回目
筋膜ダイレーダーで腎瘻を拡張する際、腎瘻の入口部分が裂けるような感じがあったので、造影を実施したところ、造影剤が皮下に少量漏れたので、予定より狭い段階で拡張を止めた。
<3> 三回目
内視鏡を挿入する際、その進路を確認するため腎盂造影を実施した。
<4> 四回目以降
腎盂尿管移行部の瘢痕性肉芽の切開操作中及び操作終了後、腎盂から尿管への通過の有無を確認するため、内視鏡の挿入口から造影剤を注入し、二、三回造影を実施し、腎盂から尿管への通過が確認された。
(5) 原告一郎の体温は、本件手術直前(一一時三〇分)三六・四度であったが、麻酔後の一三時〇分には三七・一度、手術開始の一三時三〇分には三七・九度に上昇し、被告志賀による電気マットや室温の調整が行われたが、一四時三〇分には三八・五度まで上昇し、その後三八度前後で推移した。
(六) 一六時三五分 本件手術終了
(1) 本件手術中は、原告一郎の血圧、心電図の波形及び脈拍のいずれも異常は認められず、パルスオキシメーターのアラームも鳴らなかった。また、被告志賀は、術中原告一郎の顔色等を観察し、五ないし七分ごとに原告一郎の肩辺りに聴診器をあてて呼吸音が正常かどうかを確認していたが、異常は認められず、用手換気バッグの操作時にも異常を感じなかった。
(2) 被告松本は、本件手術が終了すると、原告一郎を覆っていた覆布を取り除き、原告一郎の体位を腹臥位から仰臥位に変換したところ、被告松本、同志賀及びその場にいたスタッフは、原告一郎の腹部及び陰嚢が異常に膨満しており、術中原告一郎の体内に大量に潅流液が溢流したことを認識した。
(3) 体位変換と同時にパルスオキシメーターのアラームが鳴り、酸素飽和度を示す数値が八八パーセントとなったので、被告志賀は、直ちに麻酔を切り、一〇〇パーセント酸素で換気を行った。このとき原告一郎は、大量に溢流した潅流液により肺が圧迫され、自発呼吸もできない状態であった。
(七) 一六時四〇分ころ
被告志賀は、動脈血の血液ガス分析及び血液検査(手術後一回目)を実施したところ、その結果は次のとおりであり、酸血症(アシドーシス)、高炭酸ガス血症、低ナトリウム血症が発生していることが確認されたので、低ナトリウム血症を緩和するため、利尿剤(ラシックス、マニトン及びメイロン)が投与された。
水素イオン濃度(PH) 七・〇二四
二酸化炭素分圧 八一・二mmHg
酸素分圧 一一八・三mmHg
血漿ナトリウム濃度 一一五mEq/L
血漿カリウム濃度 四・二mEq/L
(八) 一七時五〇分ころ
被告志賀は、再度動脈血の血液ガス分析及び血液検査(手術後二回目)を実施したところ、その結果は次のとおりであり、酸血症及び高炭酸ガス血症が進行していること、依然として低ナトリウム血症が生じていること、低酸素血症が発生していることが確認された。
水素イオン濃度(PH) 六・九六三
二酸化炭素分圧 一〇一・二mmHg
酸素分圧 六二・六mmHg
血漿ナトリウム濃度 一一五mEq/L
血漿カリウム濃度 四・三mEq/L
(九) 一八時一〇分ころ
原告一郎に自発呼吸が回復したが、十分ではなかったので、被告志賀は、気管内挿管を継続した。
(一〇) 一八時二〇分ころ
被告志賀は、動脈血の血液ガス分析及び血液検査(手術後三回目)を実施したところ、その結果は次のとおりであり、酸血症は改善され、血液中の二酸化炭素及び酸素の量は、換気によりほぼ正常値に回復したが、低ナトリウム血症はさらに進行していることが確認された。
水素イオン濃度(PH) 七・二六三
二酸化炭素分圧 一〇一・二mmHg
酸素分圧 一一三mmHg
血漿ナトリウム濃度 一一三mEq/L
血漿カリウム濃度 四・三mEq/L
(一一) 一九時一〇分ころ
原告一郎は、手術室から小児科の集中治療室に移動された。このときも原告一郎の腹部及び陰嚢の異常な膨満は継続しており、腹部は風船を膨らませたように膨隆し、陰嚢も大きく腫脹していた。また、顔色は不良で四肢は冷たく、意識レベルは二〇〇程度(痛み刺激に手・足を動かしたり、顔をしかめる。)に低下していた。
そこで、血液中のナトリウム濃度を増加させるため、〇・九パーセントの生理食塩水が投与された。また、胸部エックス線検査を実施した結果、胸水貯留及び肺水腫が確認された。
(一二) 二〇時三〇分ころ
再び低酸素血症が生じ、翌日一八時ころまで継続した。
3 本件手術後の経過(以下の記載は、いずれも平成二年のことである。)
(一) 三月二日
血漿ナトリウム濃度は、〇時には、一二四mEq/Lであり、九時には、一三〇mEq/Lと正常値に回復したが、原告一郎の意識レベルの低下は続き(二〇〇ないし三〇〇)、急性腎不全による無尿、乏尿及び全身の浮腫が認められたので、一五時三〇分から持続腹膜透析が開始された(同月一九日まで継続)。
原告一郎は、一六時ころまで四〇度前後の発熱が継続した。
(二) 三月三日
原告一郎の意識レベルの低下は続き(三〇〇)、播種性血管内凝固症候群(DIC)が出現し、MOF(多臓器障害)が疑われた。この日の原告一郎の体重は、一〇・六四キログラムであり、本件手術直前(一一時三〇分)の体重九・二八キログラムに比べて約一・四キログラムも増加していた。
(三) 三月六日ころ
腹部膨満及び陰嚢腫脹が減少を開始した。
(四) 三月一四日
体重が術前とほぼ同じである九・一六キロまで減少した。
(五) 三月一五日
脳の超音波検査の結果、軽度の脳室拡大が認められた。
(六) 三月二三日
意識レベルの低下が継続していたので、脳の検査を行ったところ、脳室の拡大が確認された。
(七) 四月一七日
脳の検査(頭部CTスキャン)の結果、大脳の萎縮と脳室の拡大増強が確認され、さらに脳波もフラットで、重度の脳障害の所見を呈していた。
(八) その後、リハビリを行ったが、意識レベル、運動機能の改善は見られず、七月四日に脳萎縮の進行停止が確認され、八月二〇日には本件病院を退院した。
三 争点1(被告松本の過失)について
1 本件においては、どのような経路を通じて原告一郎の腹部に潅流液が溢流したのかという点を証拠上確定することはできないが、腎盂や尿管に誤って損傷が生じてそこから溢流したか、腎瘻を通じて溢流したのかのいずれかであると考えられる。
被告松本及び同国は、潅流液が腎盂組織全体から浸潤し、徐々に体内に吸収されていったものである旨主張するが、医学的に右被告ら主張のような潅流液の体内吸収がありうるとしても、そのような場合には原告一郎に見られたように後腹膜腔内に大量に貯留するということはありえないから(鑑定人)、右被告らの主張は採用できない。
そして、本件手術当時、泌尿器科の内視鏡手術の際に潅流液が溢流する事態が生じうることは既に医学文献で紹介されていたし、実際にも、被告松本は、過去に実施した経皮的腎砕石術の際、腎盂損傷による潅流液の溢流を経験しているのであるから、本件手術の際に、潅流液が溢流したことも、特段、予測不可能な異常事態であったということはできない。
そして、潅流液が開口した静脈洞から直接血管内に吸収されたり(血管内吸収)、あるいは、術野に生じた穿孔から後腹膜腔に溢流し、血管内に吸収されれば(血管外吸収)、それが、肺水腫等の合併症を引き起こす危険があること、さらに、潅流液に生理食塩水を使用していない場合には低ナトリウム血症を引き起こす危険があることも、医学文献において既に紹介されていたものである。
2 本件手術は、一般的術式のように狭窄部の全層切開を予定したものではなかったが、それでも、切開刃の操作を誤って、狭窄部を周囲の脂肪組織に至るまで切開したり、腎盂や尿管に損傷を与えて潅流液が後腹膜腔に溢流する危険は常につきまとうものである。
特に、本件手術においては、<1> 腎盂や尿管が成人に比して細く小さい生後九か月の原告一郎について標準サイズの内視鏡が使用され、通常の場合より切開刃の操作は困難であると考えられたし、<2> 成人には影響が少ないとみられる程度の潅流液の溢流であっても、体重わずか九キログラム程度の原告一郎にとっては影響が大きいと考えられ、<3> さらには、腎瘻拡張時に皮下に造影剤の溢出が認められたのであるから、潅流液を使用した切開操作が長引くうち、この部分から潅流液が溢流することも予想される状況にあったのであり、被告松本としては、本件手術の際には、切開刃の誤操作その他の原因で潅流液が溢流する危険というものを常に念頭に置き、細心の注意を払って潅流液の溢流の有無を監視しながら手術を行う注意義務があったといわなければならない。
3 右注意義務を本件に即していうならば、被告松本は、潅流液の使用を開始した後は、潅流液の溢流の有無を監視するため、背部、脇腹、腹部の変化に留意し、自ら又は助手に命じて時々肉眼で右各部分の状態を観察し、さらに可能な範囲で背部、脇腹、腹部を触診して膨隆の有無を確認するとともに、被告志賀の協力の下に、適宜採血し、低ナトリウム血症への移行の有無を把握するための最も有効な方法である血漿ナトリウム濃度の測定を行うべきであったといえる。
被告松本、同国は、乳児の組織は脆弱で非常に柔らかいことから、本件手術に原告一郎の腹部を触診し、あるいは肉眼で観察していたとしても、潅流液の漏れを発見することは不可能であり、また、覆布をかけた状態で腹部に手を入れるのは困難であるし、術野を不潔にするのでそれ自体危険である旨主張するが、右のような乳児の組織の脆弱性を考慮しても、潅流液使用開始前の原告一郎の腹部の状態を厳密に触診、観察して把握しておけば、その後に生じた変化(腹部の膨隆)を知ることがそれほど困難であるとは思われないし、触診、肉眼による観察という確認方法からいっても、本件手術中に原告一郎の腹部の状態を不潔にしない方法で観察、確認することは十分可能であったと考えられる。したがって、右被告松本、同国の主張は採用できない。
4 本件において、切開操作が終了し潅流液の大部分の使用を終えた一五時三〇分ころには、原告一郎の体内に、かなり大量の潅流液が溢流していたと考えられるが、そのため、原告一郎の背部及び腹部は膨満し、また、溢流した潅流液のうち、血液中に吸収されたものの影響により、血漿ナトリウム濃度も低下傾向をきたしていたと推認することができる。
ところが、被告松本は、本件手術中、背部全体の観察、触診及び脇腹、腹部の観察、触診は行っていなかったし、被告志賀の協力の下に原告一郎の血漿ナトリウム濃度の測定も実施しておらず、切開操作を終えた一五時三〇分の時点でさえ、原告一郎の脇腹、腹部の観察、触診を行っていなかったのである。
被告松本は、その本人尋問において、本件手術中覆布の上から原告一郎の背部を触診した旨の供述をするが、その触診の部位・方法が背部を覆布の上からというもので、確認の方法としてやや大ざっぱと評すべきものであり、それにもかかわらず被告松本が潅流液の溢流の有無について他の確認方法をとった形跡はないこと(造影剤による透視は、副次的にしろ潅流液溢流の有無の確認を目的とするものであったとは認められない。)を考慮すれば、被告松本の右供述の信用性には疑問がある(被告松本が原告一郎の背部の触診をしたとしても、それが潅流液の溢流の有無を確認することを目的としてなされたものであるかについては疑問が残る。)。
また、被告松本は、その本人尋問において、一五時三〇分から一六時三〇分までの間、造影によるレントゲン撮影に手間取り、結局、レントゲン撮影には失敗したと供述するが、その一時間もの長時間、ただ単にレントゲン撮影にだけ時間を費やしたというのも、やや腑に落ちない事態ではあるが、切開操作が終了し潅流液の大部分の使用を終えた一五時三〇分の時点でさえ、被告松本が、潅流液溢流の有無を特に気にとめて原告一郎の丁寧な触診をしていないことからすれば、被告松本が、手術開始から手術終了までの間、潅流液の溢流の有無を監視するため注意(原告一郎が乳児であることからすれば、それは細心の注意でなければならないことは既に述べたとおりである。)を払っていなかった義務違反(被告松本の過失)は明らかである。
5 被告松本及び同国は、被告松本及びその他のスタッフが、ビデオカメラ及びそのモニター映像により内視鏡の視野に損傷部分が認められないかを注意して観察していたこと及び被告松本が要所要所で造影剤を注入しエックス線透視を行って造影剤の溢流の有無を確認していたことをもって、潅流液の溢流の有無を監視すべき注意義務は尽くされていたと主張する。
しかし、まず、内視鏡の視野は切開刀とその周囲のわずかの部分を含むだけであるから、誤って生じたわずかな損傷部分などが内視鏡のモニター映像で常に確認可能であるとは限らない。
また、潅流液が使用された後の造影剤による透視は、腎盂から尿路への通過を確認するためのものであって、潅流液の溢流を監視するという目的で行われたわけではないから、例えば、その透視が腎瘻からの溢流の監視にも有効なものであったのかどうかは分からないし、そもそも、本件においては、その透視が、術中の何時何分の時点で、どのくらいの造影剤を注入して行われたのかとか、透視の結果がどのようなものであったのかを示す客観的な資料は何ひとつ提出されていないのであって、透視によって溢流の監視が行われていたと認めることは到底できない。
四 争点2(被告志賀の過失)について
1 前記認定のとおり、被告志賀は、本件手術当時は研修医であり、五嶋医師の指導監督のもとに本件手術における麻酔の実施及び管理を行っていたものであるが、実際の医療現場で麻酔医として本件手術を担当している以上は、研修医であるというだけで、医師に課せられる注意義務が特に軽減されるということはできない。
そして、前記認定の医学文献の記載に照らせば、大学病院のように、内視鏡手術を行う人的・物的設備がある医療施設においては、執刀医はもちろんのこと、麻酔医であっても、潅流液を用いた内視鏡手術の際、潅流液が溢流するという事態があることも当然に認識すべきであったといわなければならないし、潅流液に生理食塩水を使用していない場合には低ナトリウム血症を引き起こす危険があること、低ナトリウム血症への移行の有無を把握するための最も有効な方法である血漿ナトリウム濃度の測定を行うべきであることも認識すべきであったといわなければならない。
2 本件手術においては、原告一郎が乳児であることから、術中の潅流液の溢流の有無については特に厳重に監視すべきであったから、被告志賀としては、潅流液使用後は、低ナトリウム血症への移行の有無を確認するため、適宜採血し、血液検査を行って、血漿ナトリウム濃度を測定すべきであった。
ところが、被告志賀は、当初、動脈カテーテルを留置し、定期的な血液ガス分析及び血液検査を行いうる体制をとったものの、手術の際の原告一郎の体位が戴石位から腹臥位に変更され、動脈カテーテルが異常をきたした後は、何ら定期的な血液検査(血漿ナトリウム濃度の測定)を行わなかったから、この点において潅流液の溢流の有無を監視すべき注意義務を怠った過失がある。
3 なお、定期的な採血には動脈カテーテルの留置が有用であるが、必ずしもこれによる必要はなく、他の方法による採血も可能であったと推測されるし、被告志賀の供述によると、血液ガス分析及び血漿ナトリウム濃度の測定に必要な血液は、せいぜい一・五ないし二ccであるというのであるから、動脈カテーテルの異常を理由にその後の血液検査を行わなかったことをやむを得ないとすることはできない。
五 争点3(過失と本件後遺障害との間の因果関係)について
1 本件手術中の潅流液の溢流により、原告一郎に低ナトリウム血症、高炭酸ガス血症、低酸素血症、肺水腫、呼吸障害、急性腎不全という合併症を引き起こしたことは争いがなく、《証拠略》によれば、低ナトリウム血症は、その程度により、種々の循環器系及び中枢神経症状を来し、特に血漿ナトリウム濃度が一二〇mEq/L以下に低下すると重篤になること、具体的には、血漿ナトリウム濃度が一二〇mEq/L以下に低下すると情動不安、錯乱が、一一五mEq/L以下に低下すると悪心、意識障害が、一〇〇mEq/L以下に低下すると痙攣、昏睡が生じること、潅流液の溢流により低ナトリウム血症が生じると脳細胞が浮腫を起こし、脳圧が亢進して脳に悪影響を及ぼすことが認められる。
前記認定のとおり、原告一郎は、本件手術終了後、小児科の集中治療室に移動したときには、既に意識レベルの低下が認められ、その後、意識レベルの低下は継続し、三月二三日には脳室の拡大が確認されたのである。このような経過からすると、原告一郎の脳障害は、その具体的な機序は不明であるが、潅流液の溢流によって引き起こされた低ナトリウム血症その他の合併症の影響により生じたものと推認するのが相当である。
2 これに対し、被告松本及び同国は、三月二日に確認された発熱や同月三日に確認されたDIC等、潅流液の溢流とは無関係に引き起こされた可能性もあると主張するが、原告一郎の意識レベルの低下は、既に本件手術当日から発生していたものであることからすると、他に確たる証拠がない以上、右主張を採用して前記推認を覆すことはできない。
3 本件においては、遅くとも、切開操作が終了し、潅流液の大部分の使用を終えた一五時三〇分ころには、潅流液の溢流を発見し得たものということができ、この時点で、原告一郎に対し、利尿剤を投与し、あるいはナトリウムを補給するなど適切な処置を講じていれば、低ナトリウム血症その他の合併症の発生をある程度防止することができ、結果として原告一郎の脳障害を回避し得た蓋然性は高いといえるから、被告松本及び同志賀の過失と原告一郎の脳障害の結果との間には、因果関係を認めることができる。
五 争点4(原告らの損害)について
1 原告一郎の逸失利益及び介護費用
本件後遺障害の程度に照らせば、原告一郎は、本件後遺障害によって、少なくとも、その主張の期間その主張のとおりの収入を失ったこと及びその主張の期間その主張の額の介護費用を要することになったことが明らかであり、それらの金額から新ホフマン方式によって中間利息を控除して計算される原告一郎の逸失利益及び介護費用の額は、いずれも原告一郎主張の額を下らないと認められる。
2 本件後遺障害の程度に照らせば、原告一郎はもとより、その両親である原告太郎及び同花子も、原告一郎の健やかな人生の全てを失ったに等しい深甚な苦痛を余儀なくされたことが明らかであり、原告ら主張の慰謝料の額は、その苦痛を慰謝するに相当な額と認められる。
3 弁護士費用
原告らが本件訴訟の提起、追行を原告ら訴訟代理人弁護士らに有償で委任したことは、当裁判所に顕著な事実であるところ、本件事案の内容、審理経過、認容額その他本件審理に現われた事情を考慮すれば、原告ら主張の弁護士費用の額は、本件の医療事故と相当因果関係に立つ損害ということができる。
六 結論
以上の次第で、被告松本及び被告志賀は、民法七〇九条、七一〇条、七一一条に基づき、被告国は、民法七一五条に基づき、それぞれ、原告らに対し、原告ら主張の損害賠償金及び平成二年三月一日(不法行為の日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるから、本訴請求は全部理由があるものとして認容することとし、訴訟費用の負担につき、民訴法六一条、六四条ただし書を、仮執行の宣言につき同法二五九条一項を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 竹中省吾 裁判官 橋詰 均 裁判官 島田佳子)